【河野太郎①】異端児の血統!変革請負人は自民党政治を変えられるか?【総裁選対談】

 

 

というわけで本日のゲストはデジタル大臣
でありえ現総裁戦の候補でもあります河野
太郎さんですよろしくお願いします
よろしくお願いしますお願いしますいやお
会いできてとっても嬉しいですこですいや
操作戦中はお忙しいんじゃないですか
やっぱり色々回られますよね今そうですね
ままだ正式には12日から9月12日から
なんであそうなんですねはいまだまだ
始まる前段階ああじゃ嵐の前のというかま
嵐の前のみたいなちょっともう始まってる
けどもってことですねいや今回ですねあの
前半はえ視聴者に向けてですね河野太郎
さんの歴史うん聞かせていただきまして
その後の後半でですね今あの日本のこれ
からどうしていくのかっていうビジョンに
ついてお伺いしたいと思いますので
よろしくお願いしますよろしくお願いし
ますで特に歴史のことなんですけども河野
さんはあのお父様もおじい様もま自民党の
養殖を務められた大物政治家ということで
結構その2人からの大雅ドラマをちょっと
聞いていきたいかなと思うんですけど
大丈夫ですかあの河野一郎さんと僕のお
じいさんははい僕は多分2つぐらいの時に
亡くなられてるんであの個人的にははい
うん亡くなる最後の日の朝にはいおじい
ちゃん遊ぼうよと言って後で遊んであげる
からあっち行ってなっていうそのその部分
の記憶しかないはあ最後の朝を記憶してる
んですねうんでそれもも最後の朝だと言わ
れたのはあそれはあの後からそれは
亡くなった日の朝あのそういえばあの子供
がちょろちょろ来てっていうのを親父から
聞いたっていうんで多分最後の朝のこと
だろうなというだからそれ以外の河野一郎
さんの記憶っていうのは全くないんですね
うんうんあ実際のじゃあその交流というか
そういうのないけれどもただその大きく
なるにつれてどういう人だったのかって
いうのやっぱりこう調べざるを得ない状況
になっていくわけですよねまあのま子供の
頃はまだ河野一郎よく知ってた人が
あの護憲在であのうちに遊びに来てうん
はいまいろんな話をしてるのを聞いて
たっていうのはありましたし
あの安倍首相とプーチン大統領でうん日郎
の平和条約交渉をやろうとじゃこっちは
高野で向こうはラブロフねみたいなうん
あのそれはずっとその日ソ交渉っていうと
河野一郎さんからはいずっと来ますんで
あのその頃の記録は随分読んだりとかし
ああやっぱり向き合ってこられましたよね
元々その一郎さんの前のひおじいちゃんの
段階からその神奈川県会議長やられてた
ですそうですねあのジヘさんという小田原
の方です方っていうか田もうそれぐらいの
距離感なんですかそうです田の方いうはい
でそこから一郎さんで初めて国生にそう
ですね参加するて犬か内閣の時の農林大臣
に秘書で入ったっていう風に調べたんです
けれども
ああ私より詳しいですあ本当ですかいや
なんかそういうのもうすごいおしいのかな
と思ってたんですけどいやあのなんか結構
戦前はですねはいあの東京オリンピックに
反対してうんうんえ予算委員会かなんかで
はいえやって軍に反対をして非推薦で選挙
やってうんそれでなんか選挙違反だと言っ
てなんか捕まってえ声優会のこですかね
刑務所行ってまあなんかそうですね
まあまあ声優会というかもう大正予算会
はいはいもう1個になってたところですね
だからまそういう断片的な話は聞いたりと
かあの聞いてはいますねいやでもその戦前
からその声優会みたいなところから入って
戦後のいわゆる自由民主党になる前の自由
党のうんからですもんね一郎さんってうん
まそうなんでしょうねでまそこでまた公職
追報でえ吉田茂さん来てっていうなんか
いろんなのどもあったとはい当人派とその
官僚派でいわゆる鳩山さんを活いでる河野
次郎さんと吉田茂さんとでこうバチバチ
やってたいううんそうですねそれはなんか
あのはい漫画になったり映画になったり
そうですしてますよねいわゆる戦後の日本
の政治のこの石となってるストーリーが
まんまま鳩山さんってのもいらっしゃい
ますし吉田さんのまおさんがうんというか
ねあの麻さんですしなんかその辺りから今
の日本のま土台ってあるんだなっていうの
が調べていてとっても面白くてでその頃の
流れをこうどれくらい影響を受けながら今
の日本があるのかちょっと興味がありまし
てこういうお話聞かせていただいてるん
ですけどうんどうなんでしょうねもう
僕にしてみるとはい話には聞いてるけど
あんま関係ないなっていうあそうなんです
ねだ言ってるは麻生さんは吉田さんで安倍
さんってきしさんじゃないですかはいはい
はいで河野さん河野さんではい3世同士で
今こうすごい近いところでやっってき
たっていうのは1世2世を意識しながらと
かその辺りはあんまりないんですかあの
吉田茂と野一郎ってま敵みたいな関係だっ
たのがバチバチですもねえ全く意識せずに
麻生さんとはねやってますからあんまり
関係ないっちゃ関係ないですよねああ
なるほどその孫台になると関係ないけれど
もいわゆるお父様の洋平さんの頃からは
かなり色濃くなってきますよねうちの親父
にま河野洋平ってのは自民党でも割と
リベラルで麻生さんとのは当初かなり自民
党の中でもえ高羽と言われたま高と鳩が
一生うんで仲良くやってましたからあ一時
不思議に思ってはいなんで高と鳩が仲良く
やってるのいう話を聞いたら確はいなんか
の会合政治家の会合の時にはいそのま食事
がこう大体終わりに来てデザートになった
時にうんうまそうにデザートを食ってる
やつがいてうんそれが麻生太郎だとうん
あいつよく分かってると思ったのが最初だ
とうちのは言うんですよええなんかつまん
ないこと言うなと思ったんですけどいやで
も一瞬残ってたんですねでそれをしばらく
して麻生さんになんで高と鳩がこう一緒に
なったんですかて言ったらうんなんかの
会合の時になてあの飯の最後にデザート
うまそうに食ってる人が1人いてそれが
河野傭兵でうんこの人はさすがよく分かっ
てるって同じことは言ってええ気が合うん
だだからあなんか同じこと言ってんていう
でだからそれ以来俺あのデザートは
ちゃんと食おうって
いう食いっぷうと男が男を認める時に
なんかあのそうそうそう2人とも言って
ましたそもそも洋平さんってその一郎さん
とも全然違う趣旨の政治家さんというか
うん元々一郎さんが作られた高野グループ
うんま今のその2階派につがる流れのその
真住会作られていながら洋平さんはそこを
まず離してうんその会派どころか党自体
離島して新自由クラブを作ってで色々戦っ
てまた副FO10年後にして北東した時は
その高野派ではなくてうん高派的要素では
ない高地会に移転するとすごい複雑な動き
さ宮沢さん宮沢さんとこに行くはいあの
動きの時ってもう社会人やられてた頃です
よねえっと新珠クラブができた時がはい
中学校の今でも覚えてますけど生物の試験
の前の日かなんかでえ生物の分類表を
ねじりはき巻き立ちまきで覚えようとして
たらもうやたらと新聞記者から電話ってき
てはいはいはいで誰も親父も袋もいなくて
しょうがないから電話出て親父まだ帰って
きてませんガちゃん親父まだ帰ってきて
ませんガちゃんで夜中過ぎに帰ってきて
なんか当たら電話かかってくるけどなんか
あったのってったら浸透だて言うんではい
いいみたいなすごいことですよねそれで
びっっくりしてそれであの新珠クラブ解散
した時はあのちょうどフジゼロックスの
社員で友達としゃぶしゃぶ食い放題って
いうのに行っててよく覚えてますね
いっぱいで動けないからちょっとあの平塚
まで帰るの大変だからお前日止めろみたい
な話をしてて今日あの友達のとこ泊まるわ
っていう電話をしたらあた何やってんの
今日は新庄クラブ解散よみたいなおみたい
なはだから最初と最後はよく覚えてます
中学生の頃にお父様が自民党抜けるぞって
うんで元々河野洋平さんってもう一郎さん
の件もあったから自民党のプリンスって
呼ばれてたっていうぐらい期待されてわけ
ですねで若手を集めて政治工学研究所作っ
てでそれ束ねて新自クラブで出るっていう
うんすごいことやってるっていうのはその
中学生ならに感じてああよく僕は自民党の
中で遺児だとかうんやりすぎるとかですね
いろんなこと言われるんですけどいや俺
少なくとも自民党離したことはないよ親父
は親父は出てちゃったじゃないかと俺全然
まともだろっ
てあのよくよくそう思ってましたそうよく
考えれば全然お父さんの方がやんチですよ
ねそうだ僕ねよく自民党の冥王星とかって
言われてたことがめちゃめちゃ遠いですよ
だけど一応太陽系の中にはいるじゃんと
確かにね出てっちゃったやつは何なんだよ
引力遠心力であっちまで行っちゃった人は
いないよねっていうあそうなんですねえで
も中学生の時はまあそうなんだぐらいです
かそれとも親父すごいことやってるななん
かそれはやっぱすごいねっていう感覚は
ありましたしはいあのとにかく全国こう
飛びあくじゃないですかそうするとこう
所産がバタバタと倒れて僕1回はいあの
ついてく秘書さんがいなくてお袋に言われ
てあのついてた書さんの代わりにはいはい
はいそれでこう新珠クラブの宣伝カーが
大きな団地の中を行くんですねこんにちは
河野洋兵ですって言うともう団地の窓が
空いてみんなこう顔を出すんですよその
宣伝カのスピードに合わせてはいでそれ見
てたんでそういうもんだと思って自分の1
回目の選挙の時にあの団地の中で
こんにちはこの太郎ですって全然窓なんか
飽きしない
ああの親父の時すごかったんだっての
ものすごい注目されてたしファンも多かっ
たですねすもうなんかすごいあれでしたよ
ねだから僕は国会議員になっていろんな
ところに行くと新珠クラブの時にっていう
方に結構それこそ北海道から沖縄まではい
はい
あの前の沖縄の知事やられたオナさん
なんかもはいま外務大臣であの行っておに
かった時に
小さんのお兄さんが多分新珠クラブの参議
院議員の候補かなんかだったんだと思うん
ですオ知事からいやあの時はね私が
ドライバーやって洋平さんと一緒に沖縄中
走ったんですよって色々ごめかけした
みたいないやでもその1大ムーブメントと
して皆さん記憶されてるんですねそうです
ねそれはありましたねそれがいわゆるその
ま自民党との中で
結果最初の選挙海峡で17人議席取りで
その次でまそのね中から引き剥がされたり
してなかなかうまくいかなかったりして
連立になってその後もう1回服FOするっ
ていううんうんそういう経緯ってこう大人
になるにつれてどういう風に映ってたん
ですかその青年高野太郎から見て父のその
ま離島とま10年10年よく頑張ったよね
へいうですよね10年よ張ったなその中で
こう感じ取ったことてなんかあるんですか
日本の政治とか自民党とかに感じていや
まあ
あの大きい敵にはいちっちゃいながら
立ち向かってるっていうのはあのなんか
親父頑張ってんなていう誇らしかったん
ですねうんまあそうですねまなくなくそれ
でなんか選挙最中だか選挙終わってだか
親父が家帰ってきてまんにないんで風呂
一緒に入ったら親父が手袋して風呂入っ
てっからうんなんで手袋して風呂入って
んて言ったらこっから先が日焼けして
真っ黒になってたはえ手袋じゃなくてもう
こだけ異様
に異様に焼けてる焼けてるだけもうそれが
真っ黒でけるだけあの街灯で街灯で演説し
すぎて演説しすぎてすごいことですねうん
それはなんとなくあ大変なんだなっていう
のはあたねそういうの見てると自分が政治
家になった時にやっぱりなんかちょっと
勇気もらったりもしますまあれぐらいやん
ないといけるんだろうなっていうはあのは
なんとなくありますよね強烈な体験ですよ
ねその若い頃にその自民党敵に回して戦い
ながらも日本中から応援されてる父親見る
とか他の人にできない経験ですもんね
まあ頑張ったんだなっていうのとまあれ
だけ頑張ってもま負けちゃったっていうの
はあまあなかなか世の不条理というかうん
あのでま副島っていうからましょうがねえ
なていうで服KNされてそれでそこから
その宮沢さんの方に入ってていう動きも
すごくその高ではない中園派じゃなくて
さんのところ入ってっていうのもすごく
こう独特の動き方ですけどうんもうそその
辺になるとよくわかんなかったですよね
そうんですえまあなんか宮沢さんと気合う
からみたいなあそれぐらいの感じでもあか
なていう程度であおなんかやっぱりお父様
が作られた会派の流れを組んでやるもんな
のかなって勝手に思ってたんですけどそう
じゃなくてやっぱりまあまあんま関係
なかっそうの関係ないんですねですかねあ
うんでそこから宮座内閣があって官房長官
になられてうんうんでそこからの逃走も
なかなかうんその頃はもうゼクですか
えっとですね宮沢内閣で私が官房
長官やってたんですよねでそん時にはい
女房にプロポーズしてオケと言うんで親父
に電話してはいはいちょっとどっか近くの
ホテルまで出てこられませんかかつったら
忙しいからヨガあんなら鑑定来いみたいな
話になってへえすごそれじゃしょうがねえ
やっつんでニボ連れて鑑定にあの行って
親父がびっくりしてはいなんかあの官房
長官の師匠さんからなんか長官が自分でお
茶入れてます
けどそういう話なのかってなってお父さん
が急に慌ててお茶入れ出したんですか
なんかそうらしいですえ面白いそうだと
思わずにもいいから
こてわてすごいですねそのお父さんのあれ
とあの太郎さんのその思い出が強烈に
やっぱ残ってるんですねもなんかあのまだ
古い方の鑑定今皇帝になってるなるほどあ
でもちょっと違うんでしたっけそうそうな
んですよでそこ行ってはいそれで一応あの
結婚しますはていうそしたらもうなんか
親父が宮沢さんに行動お願いをして沢さん
の空いている日程が12月の19日しか
ないから12月の19日にあるぞみたいな
こうなんかこう勝手にこっちでは進んでる
んですこっちは全然知らなくてはい
知り合いからあの12月19日伺います
からって言われてなんでしょうかつったら
えらいびっくりしてあたふたしてあえええ
みたいなうんあ聞いたら親父からも先に
12月19日にセの結婚式でてこっちは
知らないうちに言いふらされてた
でも寝が始まってたっていうねすごいです
ねえその官房長官やってまその時生きされ
てる感じですかまあ
あのそれこそPKOだったりもういろんな
ことあって結構忙しかったんだと思うです
それで総選挙になって
結局ま野党が連立ではいうんえ野党政権に
なってでま総裁うんい選挙があってそれで
ま野党の総裁ですよねうんそれですよねま
自民と初めてギアするっていううんまあ
そうなんですかねあの戦後初めてのその
巨大な敗北を起した時に総裁にな
るっていうま初の野党総裁ですよね自民党
としてのそうその流れて太郎さんどう見て
たんですか
まあどうどうなるのかなっていう感じでは
ありましたねこの総裁になるってすごくま
誇らしいことであると同時に野党にい
るってことは非常にま悔しいことじゃない
ですかまあまあそうそうそうですよねその
状況の複雑な状況の中で史上類をみない
野党捜査になった父親っていうのはどう見
てたんですかそん時はあんまり記憶にない
んですけども急に記憶ないんですね
うんうんでえ女房と友達とうんか箱根に
遊びに行こう箱根に泊まりに行こうと言っ
ていったら雪でこはとても無理だというん
でうん戻ってきた時にあの政治改革のうん
細川さんと河野洋平のなんか署名かなんか
をうんうんうんあやった日じゃなかったか
と思いますけどねそれで政治改革で小戦局
にするていうあれがありまして小選局比例
代表並立性にまもう選挙の仕組みそのもの
がガラっと変わった瞬間ですよねうん僕は
その学校卒業してフジゼロックスていう
ところにいたんですけどもはいうんなんか
仲間といろんな勉強会をしてる中であの時
もややバブルで地下が上がってうんうん
えどうなのっていうのとその時に政治どう
なんだっていう議論でやっぱり抽選うん性
だと政権交代起きないからうん小鮮局にし
た方がいいんじゃないかっていう議論をし
て当時は小選局にするともう自民党が議席
だっと取ってっちゃって野党がどんどん
小さくなるからっていうで野党は反対うん
うんだったんですけどいそれは今はそうか
もしんないけど小選局なら政権交代起き
やすいんじゃないのっていうんで友達と
日本全国を300だか500こ小選挙を
作ってうんおおそこに過去の選挙のデータ
を入れてはいそれであの頃
コンピューターていうよりあの時電卓で
やってたのかなうんうんそれで例えば5%
票が映るとこうなるよねみたいな
シミュレーションをうんへえやって
やっぱり政権交代起きやすいじゃん
なるほどと言ったら雑誌が月刊視正論だっ
たかがいやそれおしえとこんな
シミュレーション日本で見たことないって
いうんでうんうんあの乗せてくれ乗せさせ
てくれうんうん言ってあのどうぞつって
あの出版されたんですねへだから選挙にし
たらいいのにってこう言ってたらなんか
商戦局になったんですねそっから何年かし
てまさにお父様のそのきっかけの時にはい
うんだからおおと思いましたねあじゃこれ
は歓迎してたんですねその変してはまその
なんか比例代表なんちゃら性っていうのが
つくとどうなるかよくわかんなかった僕は
僕らがや単純にイギリスみたいなうんうん
うん単純選挙であの選挙やればいいじゃ
ないうんそしたらなんかこういろんなのが
くっついてきたでまここはどうなるかよく
わかんないけどもまあその一番多いのは
商戦局で小鮮局やりますと言うからうん
それはいいんじゃないていうま雰囲気と
いうかま会社員でしたからそんなに深く
突っ込んでたわけではないんですけどまあ
小鮮挙になった方がうんうんいいんじゃ
ないのかなっていう程度の誰でしたでも
この総選挙区になったことでお父さんは
洋平さんの選挙区が分割されたことで出馬
するようになったっていう風にどっか見た
んですけどあの時は神奈川が全部でいくつ
だったかな10
516だったですかねちょうど河野洋平の
選挙区だったところと隣の選挙区とこう
一部が切両方切り取られて新しい選挙が
できてここっとできたわけですねここっと
できてここは与党も野党も原職の人が誰も
失しなかっなるほどこっちの選挙区は3つ
に分割されて原職が3人いたから1人1個
取ればうんうんうんあれだったのがなんか
こっちへあの2人の原色がぶつかってで
全くの空白の選挙区になってはいで僕の
青年会議所の先輩がいつかやるってお前
言ってたけどその原職がいない選挙なんて
もうそんなのいつあるとは限ないからうん
うんなら今でしょうチャンスはここだろう
と行けて言うんで33歳でしたけどはい
行ったとこれいつかやるって言ってた
だろっていうのはそのいつから思したん
ですかもう生まれてあこういう家計なん
だってなってからいつかやるぞって僕は
最初に意識したのはアメリカへ留学をして
シトのジジタウン大学っていうところへ
うんえ入ったんですねそれで学部の1年の
時ま全員あの学部生1年生両はいなんです
が両に両の自分の部屋のドアのところまで
ワシントンポストが配達をしてくれるとお
それを取ってとにかく一面は毎日辞書を
引いて全部読むぞとおおいいですねでま
結構アメリカの新聞って分厚いですけども
とても中読んでるうんうん暇はないから1
日終わっちゃうもたないていうあれも声も
あったんですけどいやいやまんそこは
気合いだとうんそれで1面読んであとは
こうペラペラと見出しを見て面白そうな
ところが時間が余裕があれば読むって言わ
れでまこうペラペラとは見るんですけど
はいジャパンって全く出てこないほおその
ワシントンポストで結構貿易戦争でうん
結構大変な時でうんうん貿易摩擦が貿易
摩擦で日本線のものをハンマーでぶっ壊す
みたいなのがニュースで流れたりとかり
過ぎだといろんなのがあってそれでも全然
ジャパンってニュースにおならねえなとで
日本で大きく扱われてますけどねであの
ワシントンにある日本の勝者の事務所が前
の週の新聞持ってていいよって言ってくれ
てたんでそれもらってきてあの大学の常時
タ大学の図書館にこう勝手にうんあの日本
の新聞みたいにして置くていう
ボランティアをやってたんですけど
ちょっと日本の新聞をPRするというねこ
とこうていうはいと一面はレガン大統領
はいはいはい芸名はマイケルジャクソン
マドンナうんうんうんスポーツラン大
リーグみたいなアメリカのニュース
いっぱい出てるのにワシントンポスト日本
のはい二は二の字というかジャパンの
ジェノ字もねえなっていうこのこの差は
うん何なんだていうのが多分うん1番最初
にこれなんとかした方がいいよねて思った
のが多分その政治
ま外交感っていうよりはやっぱ政治だと
いう風に思ったんだと思うんですよねそれ
がなんとなく最初ですねそのなんとかしな
きゃっていうのはもっとプレゼンス存在感
をアメリカにおいても欲しいなってうんと
出さないとダメだなていうあれはありまし
たね常智隊大学って確か比較政治学でし
たっけそうですその時にすでに政治を
心出してたのかなって勝手思ったんです
けどあのまワシントンて国際政治のはい中
じゃないですかであの時そのいくつか大学
に岩礁を出してはいあのウェズリアンって
いう小さな町にあるあの大学自体は非常に
いい大学ですけど街小さくてその前僕は
あのアメリカのコネチカットのもう本当の
村みたいなところにある全量性の方向に1
年いたんでまた小さい街は辛いなと思った
んでまウェズリアンはちょっとと思っそれ
からコロンビア大学ってニューヨークで
ニューヨークにいたら絶対勉強なんかし
ねえで遊び歩くだろうなはいおはいはい
はいでもう1つがジジタウンでこれは
やっぱり政治の中心だったんでうんうん
うんはやっぱりどれに行くっていうんで
常時タしてでその入った学部も国際学部
って国際政治の専門の学部だからアメリ
カカってリベラルアーツの何でもやるよっ
ていうのが多いんですけど僕が言ったのは
もうそうじゃなくて国際関係専門の学部
なるほどなるほど
たんでじゃあというんであの時はまだ共産
主義がありましたから比較政治学を取って
実際3年生の時に共産権に行こうと
ポーランド行かれるんですポーランド行っ
たあの最初はソ連に行きたかったんです
けどソ連はロシア語できないやつは応募
するなっていう件もほろで厳しいで
ポーランドの大学は英語で授業やってあげ
てうんうんうんあのアメリカから学生が
10人うん教授がポーランドから1人って
いう交換制度がえアに紛れてうんあの
ポランドへ行ったんですけどだからま比較
政治っていうのをずっとやってましあそ
比較ってのは自由主義と社会主義っていう
いやまいろんな比較なん
ですあの比較があるあのが撮ってた中には
例えばあのメキシコとインドとえどこだっ
たかをその要するにこうどどういう形で
みんな民主主義になったのかみたいなの
うんす業ありましたそれぞれのカントリー
リスクをどう分析するかみたいななるほど
のもあったのは非常に面白かったですけど
もで結果的にジョージタウン大学の比較
政治学部だったっていうことでその政治を
すごくやりたくてそこに行ったというより
はニューヨークとか小さい町から比べると
興味があるかなまあのそれはあれあと
やっぱりアメリカに行ったのも国際政治の
中心はやっぱりアメリカだろうああ
なるほどいうのがありましたそれから
ワシントンにいるんで
うんうんやらしてもらいたいなと思って
はいあのその前に大統領選挙84年の
大統領選挙がありましたから大統領選挙で
あのインターンやらしてくださいと言って
あのカリフォルニアの上院議員だった
クランストンという陣営いたんですけど
割と早いうちに負けちゃったんで撤退する
と言って撤退してインターンシップ終わっ
ちゃったんでそれで議会のインターンを
やりたいと言ったら僕の知り合いの
ハウスメイトがうん議会で働いてるから
そいつに頼むよって言ってくれてしたら
はいアラバマ選出のあの議員のところへ
じゃじゃあ俺と一緒にちょっとボスに会っ
てみるって言ってうんあの言ったらじゃあ
明日から来いよてあなんかそんな簡単に
いいんだでそっからずっとあの卒業する
までインターンや経験ですよねポーランド
にも行ってるしそのアメリカでね議員さん
のお手伝いインターもしてるしだからその
今お話聞いててワシントンポストを読んで
あこれは何とかしなきゃって思う以前に
もう政治の方向へのアンテナはもうずっと
立ってたように聞こえるんですけどまあの
そういう意味で
せっかく向こうへいるからはいあのいやま
いろんなインターンのチャンスってのは
ワシントンだとあるんだと思いますけど
もう最初からあやっぱ大統領選挙でしょう
とでま負けちゃったから議会でしょていう
意味ではそっち向いてたかもしれない
そもそも慶王の高校でしたっけ高校から
中学中学校から中東部から高校で大学2
ヶ月ぐらいで中退してアメリカ行ってる
じゃないですかはいそのでも同級生に
アメリカにその慶2ヶ月で中退して行く人
って少ないですよねうんまあんまりない
ですよねその時もすごい強い意思を感じる
んですけどそういう時にもう国際政治の
中心地アメリカを見たいっていう気持ちが
大学1年生の時からあったですね
あの小学校の頃にはいあ夏休だったか
ちょっと忘れましたけどはい海外から電話
勝ってきたんですよねうんうんでなんか
親父宛ての国際電話で親父が電話に出て
ペロペロて英語で喋ってるわけですよ
うんうんびっくりして親父英語できんだと
うんよく聞いたらスタンフォードに
に入学してたっていうんでそれから
やっぱり英語できなきゃうんうんまずいよ
ねおていう思いはずっとあったんで割と
中学高校英語ははい頑張ってほぼオAへえ
ま実際アメリカ行ったら全然通じないって
いうのはあったんですけどそ英語は頑張る
っていうんでうん英語はやってましたそれ
で大学院っていう選択肢もあったのかも
しれませんけどやっぱうん早く行った方が
いいと思ってはいたんですねうんうんあの
ケネディに続く若者たちていう本があって
うんこれはあの日本人があのアメリカへ
うんうん留学をしていかに苦労したか
いかに大変かていうのを読んでうんこれ
行くしかねえなうんと思ってたんですけど
はい片谷あの平塚生まれ平塚育ちなんで
はい正月は箱根駅伝が通るわけですよ平塚
はい状もあってはいこ箱走るしかねと思っ
て中学高校と慶王の競争部キャプテンね
陸上みたいな競争部それのキャプテンでだ
けど大学入ってこれ慶15校にそもそも
入れねえなとあそうなんですね強くない
うんそれで割と諦めが良くておおうんこれ
箱根ダメそうだからアメリカ行くしかねえ
とはあなるほど陸上の情熱と英語ので陸上
がこの大学だとてなったらこっちに集中し
たとうんうんうんそれでそういう話を親父
としてたらうんそのアメリカ大使館の
レセプションがあって親父がじゃお前の
英語がどれぐらい通用しねえか自分で体験
してみろと言って通しないかを見てこいと
うんそれでなんか親父と一緒にあの親父が
連れてってくれたんですよそれでその
アメリカ大使館の人には私はアメリカへ
大学をしたいんだけどうんうんあのどうも
親父がいい顔しない賛成しないとぜひ親父
にあの息子を送ったらいいよと言ってくれ
みたいなこと一生懸命説明するんですよそ
するとその向こうの人がいやいや慶王は
いい大学だから卒業して大学院で来れば
いいじゃないかうんあなるほどみんな言う
わけですよ何もそんな焦んなくていいん
じゃないか大学中退しなくていいようん
それでなんかああて思っていやこちらの
味方のはずが完全に父親父に親父についた
なとそれでまなんかぶなんかむすっとして
たら帰りの車の中で親父がうんみんな反対
だなていきなり言い出してもううるせえな
と思ってたらはいはいみんな反対なら
面白いから行ってみるかええってんでえ
いいのみたいなそれでなんかそこで
あっさりこう買ったやっぱそこら辺が
ちょっと破天荒なとこですよねお父さんね
うんみんな反対だったら行ってみようとか
ちょっと天じょう
あの高校のサマースクールを見つけてあ
なるほどそれでサマースクールへ行って
そっから高校へ編入をしようとうんうん
それであの1年英語を勉強しながら向こう
で入手を受けて行けるところへ行くそれが
ジョジタウンだったんだでま僕の計画とし
てはとりあえず慶王はお休みにしといて
行こうかと思ったらま行くならやめてけ
みたいな話になってうんああそのお父様が
排水の人になったはい排水の人好きですね
お父さんミスター排水の人ですもんねなる
だけどこれはやっぱりもう後ないって言と
前行くしかないんであ確かにこれはま
良かったかなっていうのとやっぱりその
編入した高校であのいきなり行ってうん
アメリカとこうシーズン性なんですよね
スポーツがで秋のスポーツ何やるっていう
んでまとりあえず競争部やってたからはい
クロスカントリーかなと思ってク
カントリーのチームに入ったらいきなり
エースになってああすごいエースですか
エースになってそれでなんか周りから
あいつ英語も6に喋んねえけど走るの早え
な箱根仕込みですからねそれでこう
マイクロバスで移動する時にちょっとあの
あいつに英語を教えようっていうんでこう
僕の隣の席に15分交代でねこの単語を
発音してみろへえ発音うんそうじゃない
こうだ面白い
に向こうはこう変わるわけですよはいはい
はいこっちはそれ2時間やら
れる集中講座100人組みてもうそれでな
なんとなくあのこういう口の形で言って
みるとあ通じるっていうのがはなんか
分かってきて友達からのスパルタ教育だっ
たねそうそうなんですよね面白いですね
向こうはね面白半分でねちょっとこういう
単語言わしてみようみたいなあでも足早い
からあいつ面白いなからですもんねうん
それでだからそのチームのあのメンバーと
はすごい仲良くなってはいええじゃその
KOOの競争部の頃が生きてるわけですね
まやっぱりねあの得意なものは身を助け
るっていうちょっと助かった部分ってあり
ましたねなんかその競争部の伝統というか
高野家ってずっとその箱根にこだわってき
たんですかあでもあの河野一郎の平は稲田
ですからあそうですねこっちは慶ですから
でももでもなんでその競争部に入ったん
ですかなんかあるんですかこだわりがいや
親父は別に走ってたわけじゃなくて親父は
マネージャーあそうでしただからあの昔は
自動車部が自動車部のキャプテンがなんか
ジープかなんかを運転してでその2台に
あの監督と一緒に親父は乗っててへそれ歌
えって言うと宮の西北を一生懸命怒なった
応する側だったんですねそうそうそうそう
あ一郎さんは走ってたんでし一郎さんは
走ってたで一郎さんと弟のさんと兄弟で
箱根駅伝の1回目から出てるんですけど健
さんはあの割と
僕いろんな話をしてたことがあって健造
さん曰くはい河野一郎は遅かったんだとだ
からあの小田原箱根館ってのが1番距離が
短くてそこしか走らしてもらえなかったと
おだけど兄貴は将来の選挙区を考えて俺は
あそこを走ってたと後付け言ってたけど
本当は本当は遅遅かったからだよて造寺は
スタートやったり箱根の山登りやったり
あの箱根の山登りで記録作った年に関東大
震災でなんか山が壊れたんで俺の記録は
永久に不滅だとむちゃくちゃないですね
健造時からえ健造さんあれ衆議院議長参議
参議議長でしたっけすごい一族ですよねで
その伝統の競争部にあ自分もすんなり入る
んだってなったんですかいや僕はあの慶
ですから関係ないだそこはなんか違う俺は
俺の道があるとへえでもそれが生きてで
その選挙が別れたところにもう行きたいっ
て言ってただろうといよいよ来るわけです
よねま親父は親父は反対しましたけどねあ
そうなんですかなんかお父さんも待ってた
ぞっていうことなんじゃないんですかま
そういうわけでもなかったでなんで反対さ
れたんですかちなみにうんそれはよく
わかりませんけどもええいやまだ早いん
じゃないかとかそういうもうちょっとある
仕事やったらどうかみたいなことだったん
じゃないかと思いますねああ政治家どうか
ななんてこと言ったけどもでもやり
たいま
あの今しかないだろうまあの先年会議所の
先輩がはいこんな原職いないうんうん前
行かなかったらもう他のことやった方が
いいよみたいな感じだったそれ出る時に
まあ勝つだろうなっていう気はあるんです
かやっぱりいやあの時はとにかく小選曲制
は自分でシミュレーションとかやってまし
たからそれはもうどっちへ転ぶかわから
ないのがはいはい小選曲制でだから政権
交代も起きやすくなるっていうのがあり
ました結構死者ぐいはいはいはいええあ
死者ぐいあその時まだ
えっとに自民党に与党に戻ってない時です
かそれとも連立えっといや自民党は連立
でしたけども自社査政権で橋本総理でした
はいはいはいはい僕は思えてるのは11月
1日95年の11月1日かな朝6時にいに
茅ヶ崎の駅にってはいおはようございます
野太郎です行ってらっしゃいてあの演説し
てもみんな通勤ではいうんうん行っちゃい
ますよねだから演説しちゃって要するに
そんな10秒かそこらしか聞いてもらえ
ないところで喋っててもしょうがないから
うんおはようございます河野太郎ですいっ
てらっしゃいてこれを2時間ひたすら
繰り返すわけですよは演説じゃなくてもと
挨拶ですね挨拶をそれで1ヶ月ぐらい経っ
たところでなんか1人の人があい若いの
お前毎日頑張っててえれななんて名前だっ
ていやいや俺名前しか言ってないよ野太郎
ですって言ってるじゃないとそれでも聞い
てくれないんだとだからやっぱ選挙大変だ
なっていう厳しいですねそその一言でえっ
ていう感じだったですよね名前1ヶ月言っ
てるからちょっと顔と名前覚えてもらった
かなと思ったらはいお前なんか1か月
頑張ってるなっていうのは見てるけどなん
て名前よって言われてぼんやりだも厳しい
選挙いうのはあと2月かなんかのもう寒い
日にはいあの割と若い女の人が頑張って
くださいねて言ってうんあの
冷たいオレンジジュースの缶を寒日ですね
寒い日にあありがとうございますって
すごい冷たい冷たいすねあったかいの
欲しかったですけどねうんでもきっと応援
してくれてるんだろうな悪気なさそうだ
しっていうね11月1日に選挙運動始めた
時は年明選挙だほ頑張れて言われて結構
しきで頑張って年明選挙なくてうんうん
選挙ねな桜の花が昨選挙だうん桜の花散っ
たけど選挙にならねえなっていうんで
ちょっとゴールデンウィークはもうなんか
半年間ひたすら選挙だ選挙だと言われて
選挙なかったんでちょっと疲れたんで
ゴールデンウィークはちょっと休んでうん
そっから体制を立て直していよいよあの
怪奇末選挙だで6月になってうん終わっ
ちゃったけど選挙にならずうんうん夏が来
てうんで10月選挙になってだからほぼ1
年間すぐそこが選挙だと言われてひたすら
走ったゴールはどんどん遠くて10月20
日に始めて当選はい初当選まで1年準備し
たんですねそうですねで当選してから
そのその自民党の中でうちの派閥恋いよ
みたいな誘いってあるんですよねなあんま
僕のところはなくってというかその当選し
ましたでえっとその特別国会が招集され
ますま地元であの当選したんで色々選挙の
後処理をやったりしてるう挨拶回りしたり
とかにその議員会館の部屋の割り当てって
いつ来るんだっていう話になって連絡来
ないよねとで倉庫してるうちに明日特別
国会消うんうん
事務決まんねわけねよなてんで俺ちょっと
言ってくるわて言ってうんうん銀会館行っ
て事務室行ってすいません初めて当選した
河野太郎なんですけど銀会館の部屋の
割り当てっていつ頃になるんですかうん
うん聞いたら準局の人がすげえびっくりし
てはいそんなのとくに終わってますけど
派閥からご連絡は行ってませんかおいや
派閥入ってないから連絡気がねえなと
普通みんな入るわけですねじゃあいやだ
からそはそこの感覚が僕よくわかんないん
ですけどお父さんも何にも教えてですか何
も何もなくそれで部屋もなくすごいサラ
ブレッドなのに何にも知らない新入生
みたいなでそしたらたまたま2階の階段
上がってすぐの部屋が空いてたはいはいで
自民党の割当てだったんでここお願いし
ますすつってそこになったんですけどいい
とこ入ってた糸が入ってたからラッキー
だったんですけどこはいへえ入ってみて
なんか思ったことあり
カレーライスがはいビーフカレーと
シュリンプカレーとなんとかとあの辛いの
と中辛とっとこうなんか色々あって好きな
のを選べるはいうんでところがなんか他の
派閥はもう同じお弁当をみんなで食う
みたいなへえ一致団結するためにうんまあ
なのかどうかわかりませんけど同じ弁当
食うぞって言ってなんかなんかあのうち
うちの方は選べるよみたいな話を1回同し
て自由だよって高会優しいようんなんか
昼飯バリエーションあるよみたいなへえ
いや聞いたことない情報ですねそれなんか
葉で高地なんか奥集団とかいろんなあだ名
あるじゃないですかねなんかハハタハそ
その優しい感じというかみんないいよって
いう感じではそれ宮沢さんのなんかその
構成もあったんですかいやそれは分かり
ませんへえあんまり
でなと僕もあんまりその派閥の活動に熱心
な方ではあそうなんですかなかったんで
まああのなんかある時は行くけど別に飯
友達と約束してたらちゃう熱じゃないま
熱心じゃないですね派閥活動にでもその
高知会って大事件起きるじゃないですか
その直後にお父さんが抜けるじゃないです
かはいはいはい大誘拐高野グループ作って
高地会をぞって麻生さんととかと抜けます
よねうんうんうん
このお父さん洋平さんとその加藤光一さん
うん高地会のプリンスと呼ばれたこのこう
対立軸とかっていうのってその時間近で見
てたんじゃないですか経済に必要なのは
この賃上げがしっかり続いていくことその
ためにははい労働市場を変えていく裏金と
言われてしまった不の金額をここへうん
戻して裏金もちゃんと処理しましたとうん
知りましたというのがま1つのけじめの
あり方なんじゃないのとプログレス
[音楽]
人は何者にでもなれるいつからでも次は
あなただ

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