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というわけで本日のゲストは加藤克信さん ですよろしくお願いしますよろしくお願い いたしますそう再戦期間中に本当に ありがとうございますなあの前半で ちょっと加藤さんのヒストリー聞かせて いただきまして後半でビジョン聞かせて いただきますのでよろしくお願いいたし ますよろしくお願いいたしますそもそもは でもあの今選挙区の岡山とは違う出身で 言うと東京なんですよねあの生まれたのは 東京なんですけれどもまあの私の父のかま 学府がま岡山でやってきたっていうことも あってはいははいあるということですあの そういう流れの中で今私が岡山で活動して ますがただ市はあのまいろんな自分の思い があって1回自民党離島してていう流れの 中ではいうんムさんですよねはいでま 私自身がまどこから出るかなかなかそそう 別に自慢を継承したわけではないのでま そこでこう色々活動しまさま自民党に入り そしてま今では選挙でえやってきたとはい いうことですよね選出されているとその 流れをちょっとねあの詳しく聞かせて いただきたいんですけどもそもそもその 成人に興味を持ったのがかなり早かっ たっていうお話を聞いたあの子供の頃の 作文にもですねえはい末は総理か生物学者 になりたいっていうこおしかも具体的に 何歳の時にななるそれから考えると ちょっと今回の総裁選挙の名乗りはその スケジュールからは遅れてますかあもう 遅れてはいるけどももうそれ小学校の時 ですかそうですそうですまただ当時人生 60年で今人生100年ですからあ ちょっと延期してもねこれはスケジュール ないだろうとでもこの小学校の時に総理 大臣になりたいっていうことを書いてかつ なんか選挙速報とかも見てらっしゃったん ですよね結構ですねあのこたの中でですね 遅くじ遅いじゃないですか海道でいつまで 出見たんだて怒られる中しながらなんか 一生懸命それ何が面白くて見せたか覚えて ないんですけども一生懸命こおなるほど なるほどと見てた記憶があります小学校の 頃からそういう政治に興味を持ってい たっていうのは何か限定があるんですか あのまそのルーツを遡ると私の祖父があの 島根県私の父も島根の出身なんですがその 祖父が見解議員見解議長やったりま参議 選挙に挑戦したりっていうただそれを そんなに間近で見てたわけじゃないんです がなんとなくそんな空気感もあったのかも しれないなと今から思えば室勝さんです はいそうですあざいます商店の崎勝さんが 島根議長やっのは小学校の時からも知って はいたんですかいやあのそんこなんかその 県議会議長という意識はなかったですねて かもう小学校の頃多分やめてたような記憶 がしますけどはいあそうなんですねじゃあ そのご家族がなんか政治に関しての発言が あったり政治家ってすごい仕事だよなと かっていうのを聞いてるわけではないです でもやっぱり社会問題とかそういたも すごい関心があってはいももはいでお割と も最初の頃はあれ小学校新聞みたいなのが あるじゃないですかま読み始めて途中から 親父が読んでる新聞読んでみたりとかはい なんかまそういう意味ではませてたという か へその親子さんの影響ではなく自自身から その社会問題とかに興味があって政そう ですね誰か何かしろと言われた覚えは全く ありませんからはあそうだったんですね そんな中学校があの学園大学の小金そう小 学校中学校学代の小金あ超中これ実はあの 私事で恐縮なんですけど私もあの小金中な んですよあはいあ学代のそうなんですあ そうですかその元々私山口県からその親の 都合で転勤して編入で優秀ですよ入とん はいでもあの武蔵小のあそこですよねも 本当に真近感をあの勝今いくでしたっけ今 42ですあそうそうすると私と市販世紀 違うからある辺の雰囲気は私の頃はもう子 がねえからはい学のもうほとんど畑 ばっかりかなとこですよねそうですもう その後なんと住宅が立ち始めていたんじゃ ないかなとは思いますですねでも比較的 やっぱり都心と比べるとこう穏やかな ところですよね武蔵子がねいあそこに通っ てらっしゃったんだなとはいあじゃあ一緒 ですよねそうなんですよでそこから高校経 て東京大学高校どこ行かれたんですか僕 あの楽屋大高校に落ちました私とあそうな んですかそのまさかのて思ったんですけど そうなんですあれ内部進学が結構厳しいん ですよねいやま外部と登校に行くのの外部 の選抜と内部の選抜別々に行われてで内部 の人間は当時4つ学生代の中学校があって そっからこう行くわけですよねで当然ま そんなにいい方ではないけど悪くはなかっ たんでま当然みんなも行くし私も行けると 思っていてで特段なんか試験勉強しろって あんまり言われたこともなくま普通に勉強 しときゃいいんだようんで普通うんに受け てそしたら俺ダメだよって言われてええて いうえそうだったんですかそうなんですで もなんかそのそそすっと行ったわけでしょ いやでもそのそ私そこでドンと行ったわけ ですわ1回それで1年発起してのあれな 東大なんですかいや1年発起というほど なんかすごく勉強した記憶はないんです けれどもそれでま当然ここに行くと思って ましたここの選択肢考えてなかったんです よけどそうはい中学校で浪人するわけに いかないのでそれでまじゃあ当日のまここ だったら内はいあるじゃないですかと実際 の試験ま内心症の点数ここまで行くからま よっぽどがなくても通るよねと言って選ん でで言ったところが都立の追高校っていう ところでただ本当にそこでもう今でもです ねもう10何人ずっと毎年会うぐらいの 友人ができてまそういうこともあるんで なんかその頃のちょっとその時は本当に 挫折したんだけども高校時代は自分なりに すごく楽しくああ充実してそっから東大 からのこれ大倉賞じゃないですかその大倉 入ろうみたいなっていうのはそのどの ぐらいから思ってらしちゃったんですか あの大倉賞っていうのは最後に絞り込ん でったんですがやっぱり自分はやっぱり そう直接けまいろんな皆さんの仕事全部 社会に役立ってるわけだけれどもま直接 やっぱりそういう社会にけにつながる仕事 をしたいなと思っていてただ思っていた けどそんなに勉強してなかったんで4年生 であの公務試験行た落ちましてまたねあ そうなんですねででまもう1年はいでま当 もそんなにくない時でま自分で稼いでも 払えるぐらいなのでじゃまちょっと1年 行かせてもらうよと言って1年経って公民 試験受けてでま色々回ってくうちにま やっぱりらしと当時のねナンバーワンです もね省庁のその1番難関の点数高い人が 行くイメージなんですよまいんあの中には いろんな人がいて彼上からナンバーがおし ってわけではないけれどもまやっぱり みんなが行きたい当ですねはい行きたいっ ていう役所の1つま今もそうだと思います けれどもやっぱり1番こう予算を預かる 大きい象徴のイメージありますからそう ですねやっぱり回ってくうちにやっぱ国 全体を見れる役所ただまそこで働く時はね それは全体見てるわけじゃないですけど やっぱりそういう可能性のある仕事をし たいじゃあ大所行きたいそしたらま たまたま取ってもらえたていうその国の 仕事がしたいは小学校の頃中高代と基本的 にはずっとそういう思いがあったんですま そんな強いすぐその卒業しての強い イメージを持ってたわけじゃないですが やっぱ常になんかどこかでおけとかせま 学校の中の政治っていうかねあの自治会 自治会っていうんですかねそういうの話と か常にそういう意識はあってやっぱりそう いうところでやっていきたいなその公の 仕事がしたいっていうフレーズがありまし たけどあのその大の仕事がしたいっていう のはどういうこと大にかかる仕事ですね はい国とかみんなに役立つ仕事がしたい なっていうここのこだわりていのはこれ なんで生まれてきたのかってわかります なんかもずっとそういう思いずそうだから そこになんかブレがあないですねその小 学校の頃から先ただその時にしっかりそれ に向けて勉強したかどうかっていうのは 若干ありますけどもあ興味はずっとずっと ありましたねそこがやっぱり1番大きい 喜びとしてあって大倉を選択されてうん はいでもこう激務のイメージなんですけど 大賞とかま今以上今はは方科学私もま率先 してやってきてまそれでも今ブラックと 言われてますがはいまあ当時は本当に しかもあの頃はですね土曜日休みじゃない 半分時代でしたねはい半分ってなんですか え半日だけえ半です午前中だけえ仕事時間 で昼から帰るていううんああなるほどはい で修業けど昼で終わるわけではなくて やっぱりでだからま休めるのは1日局は 土曜日の午後って割と仕事がこう来るわけ じゃないからそこで結構先輩とうんいや 本来財政とはどうあるべきだとかはい 例えばこれ今税金取ってるけれどもじゃ 全部国際でやったらどうなんだとかって いうお題をいただいてでそこでまご飯食べ ながらとかま場合によってはおいっぱい 飲みながらですねカカ額角議論できたって いう意味では良かった時代かもしれません ねはあそんなお題が来たりするんですね 税金じゃなくて国際でなったら全部国家を 運営できんのかどう思うとか言われるん ですねという話をまその日中してるわけ じゃなくてそういう時にごそもそも論 みたいな話ですねへえそのその一応その 例えのテーマですけどちょっと興味深い テーマですけどその時は結論どうなったん ですかいやま結論はそれずっとやったら それやっぱり無理だよねっていうま最後 結論ではそうなるわけです国際だけで脳脳 税金でもでもいやこうだって言うと いよいよこうなるじゃないかこうだって 言うとこうなるじゃないかていうそういう 意味でこう非常にあの頭が整理され るっていうか頭の体操っていうかねそう いうこともやれたあの毎週やってたわけ じゃないけどもそういうこともできた時期 でしたねただ今それで見ると今の現役の皆 さん方はま月金曜日土日は今本時休みだ けどその月曜日から金曜日かなりこうその 分だけ含めてねかなり忙しくやってるし うんあなるほどタイトになってますねっ ですねそれから当時でない当時なんか パソコンも何もありません なんあからという時代から今もそういう 時代になってきてるんでま働方随分勝って きてるじゃないかと思いますうん確かに今 の財務省と当時の大倉省ってまた全然違い ますかま今の財務省直接そこで仕事して ないから分かりませんけれどもはいはい うん変わってきたんじゃないでしょうかね あどういうところがちょっと変わったか なって思うところもありますかうんそう ですねまみんな国のためというを持って皆 さん働い今のあの入ってきた方も働いて いるという風には思いますけれどもうん うんやっぱり仕事のやり方が変わってきた のかもしれないなていうのはやっぱりあの 私どが入った時にやっこう入っとコピー 取れとかね清書しろとかていうのがある ありますけれどもま上の人がこう直した やつをそれ見ながら時にはちょっとこ自分 なりにアレンジしてみたりしてこう帰っ てくわけですそうなんかその仕事全体の中 に自分がうん一緒にやってる感があって あのやってることはそういうことなんだ けどでも全体の仕事やってるあこれこの話 ってあ新聞ここ出てるよねっていうまそう いうすごいやりがい感が当時私はありまし たけどな今そういうやり方っても今多分上 の人自分で直しちゃったりとかねそういう ことになってくるとこう一体感みたいな ものがま今どうなのかなっていうそういう 懸念は持ってますけどねああなるほど ちょっと時代と共に働き方がちょっと 変わってきてるかもなうんそうですねま 一方でそのからちゃんとこうこの時間には できる帰りましょうとかこう休みを取り ましょうとかまさに働方改革自体は アクションの中でもしっかり進めてもらっ てますしうんあ進んではいるんですそれ からもう1つ変わってきたのは女性の採用 がフェあなるほどなるほどで私自身が初代 の内閣人事局長先今言っちゃうんだけど そうでそんな時ももう女性はもう3割以上 うん取るうんその前なもう1割とかそう いうじゃですかる時代になってきました 最終的には55割れ行くべきだと思います けれどもまそういうことでえその非常に 役所で特に若い世代においては女活躍し てる女性が増えてきてるしうんうんうん ああなんか内閣人事局っていうとこう官僚 主導ではなく政権主導で行こうっていう ものとして機能したイメージがあったん ですけどそういう女性活躍とかそういう ところもあの大きな手としてあったんです いやありましたそういったことも一緒に 進めさせてもらいましたしうんなるほど あのます政府全体としての針の中で それぞれやそのあとはもちろんそれぞれの その仕事は仕事になりますけれども内閣 全体の方針っていうのをしっかり出して いくうんうんうんえ人事についてもその ある時は役所で決めている時にはOBが 関与してるそうじゃないだろうとやっぱり それぞれ皆さんは国のためでなし国のため となればまず今選ばれた内閣が決めてる 方針に沿ってもが動いていうん行くそれに 協力をしてもらうまたそれに力を出す人に うんポジションについてもらうなるほど そういう意味があったんですねはいその 大倉官僚をやってる流れの中でその先ほど 出てきた加藤武さんま師匠であり学府でね あらゆる加藤ムさんの農林水産大臣時代の 秘書館に入るんでしたっけもうその時は 結婚してましてあもう結婚してたんです たっけはいその後ですねあそうだったん ですねはいでその時にあの秘書館ってつ あって政務の秘書官と役所から来る秘書官 がいるんですねでこれは総理であろうと 官房書官であろう大臣でだあろうとみんな そうなんですがで私は政務の秘書官として え行くとで本来の役所からの人別と秘書感 がいるで西武の秘書感になるってことは別 に戻って普通の役に戻ることもオケーでは ありますけどもまやっぱりそこがやっぱり 政務になるっていうことはやっぱり1つ こう役所として区切りを作って次はいに 行くまそういうそういう時に来たという風 に私思いましたしまそれそういう覚悟で あの政務の召喚やりましたただ残念ながら その前割と短く終わってしまったんです けどそう2ヶ月ぐらいですそうですねもう もう数ヶ月ですね数ヶ月はいで戻ってでま 叱るべきタイミングでやめたとで政治を 目指してたあなるほどその大倉賞の官僚で ありながらその府の政務秘書館に入 るっていうはい手続きが取れるんですね それはあるんですあの別にそういう親子 関係とかそういう関係でなくてもあの別に 例えばいろんなところで一緒に仕事した ことがある今度こポジションついたから じゃあジムじゃなくて俺の政務として政務 と言って別に選挙やっだけじゃなくて 幅広くやるとなってくれっていうケースは ありあると思いますこの大倉管理をやり ながらいずれ家にもなりたいなっていう 気持ちもあったんですかそうですねだから 政治っていうのはずっとそのさっき 申し上げた流れで意識をあのしてはいまし たけれどもまどういう形になっていくのか ま1つのきっかけが妻と結婚してえそして えこうした岡山の繋がりをいただいて そしてえ今の立場になってきたなるほど奥 様との出会いってのどういうもう見合い ですね今で当時で言見合うんうんお見合い して結婚して結婚したらお父様が政治家 だったっていう感じですかいやもうその時 は知ってましたけどはいもう知っていて はあどういう方なんですか加ムさんって あの見た目はですね皆さんなんか迫力が あって怖いっていうことをいらっしゃる方 もいますけど普通に喋っとすごい優しい ですしはいあの家族に対しても本当に 優しく接してますし私もそんなえあの外 から見るような感じ全くなくてあそうな 肖像がもねうん銀会の部屋に飾られていて すごくねあの尊敬されてらっしゃるんだな と思うんですけどもあのいわゆる安倍橋 天皇言われる中でものすごいこう政治の ダイナミックな中にいた方ですよねそう ですねちょうどもう本当にあの頃の時代の 中でですねえ特に中園政権をわってそれ から竹下総理になるんだけどその時に竹下 さんがあれ はいあのまそういうのさんですね新太郎 先生はい新太郎さんとでこのうちの父は 新太郎先生をもう本当に浸水してたしはい もう一緒一心同体のぐらいのやってい竹下 七武行安倍市天皇時代ですよねでそうした その安倍新太郎先生がま体を壊してくない なってていうそっからまいろんな ストーリーが出てくるんですけれどそう ですよねそこからその加藤武さんがその 自民党離島されてそれで新聖党ですかあの 旗内閣の時の農産大臣の時に政務秘書官 ですもねはいあの旗内閣っていうことじゃ 初めてその自民党がギアしてという流れの 中でとんでもない政治のダイナミックの 転換点というかそうですねその時にこう やられててあの時のことって思い出され ますか一緒についていながらですねもう 当に政治がドタバタしてたはいはいはい はいどたばたしてますよねあの時もう すごい連立内閣ができてもうやれあっちだ こっちだで今度はまた自社さ自社さがで 社会党と自民党がきつくなんてのもですね はいもうえっていう感じですけどままさに そこが権力構造っていうかですね権力闘争 そのもだと思いましたねそうですねその時 はもう政務官ですかそれとも辞めて体感し て秘書ですかいやですかその時はまだ在籍 したままさっき申し上げた政務の秘書官と して大臣秘書官をやってったその後でで 体感して秘書となってというはいでその後 の出場に関してもかなりこうカさんと なんか色々ありましたよねでそこで いわゆる抽選局から小選局にまず選挙が 変わっちゃう変わってくるですでそうする と岡山当地5つあってでもうすでに5人は 決まっていてでで大体うちの父はも自民党 で離れてましたからはいで私自身当時新進 とというのがあってでそこでじゃい選挙 でようとうんで年末に新身党のえ投手戦 だったと思いますけどま代表戦だったかも しれませんがあってで小沢さんがあの当選 するんですがその小沢さんがはいうん ぶっ壊したんですねおおあの新党そうする と県の中でうんじゃああの私はじゃあいい よねっていう流れができていたんだけど うんも関わる器がぶっ壊れちゃったわけ ですねはいはいはいでもまやはり決したん だからということで無所属で参議院選挙に 挑戦をしま愛なく戦というそうかじゃその その無所属で出ようじゃなくて新身党から 出るつもりが器が壊れてしまったという そうですもう激動ですね本当にそうでそれ があってその辺りで橋本竜太郎さんとのご 縁があるんでしたっけでそれでで次 いよいよ衆議院選挙はいもでも橋本龍太郎 先生ははい抽選局時代はうんうちの親父と その争いう名前があったら木竜太郎の6流 戦争ですね岡山のもう癖はいで実際小鮮局 の時にぶつかるわけですよはい倉敷という ところでですね倉敷でバチでもうその時 橋本先生は総理はいうんという総理にです ね自民党にいた人間がぶかるってこれれ すごいことなんですよ正直まそういう経験 もしましたうんそれでま父はその後引退を するんですがで私自身自民党とは切れて 切れてか元々親父が切れてるしはいでどっ から出るかってこともお確定していない うんまそういう中でま基本的にここの選挙 区だっていうことは念頭に置きながら ずっと選挙をやってはいでじゃあどう しようかうんじゃあやっぱりもう小選局 制度になると政党選挙ですからやっぱり 政党との関係ってどうしても出てくるんで で当時若い役所の人たちもみんな結構当時 の民主党にこう言ってたりしてはいうんま そうするとじゃ選択肢なのかなとことを 思いながら色々やってた時に橋本太郎先生 から比例でっってのは考えられないの かっていうご提言もいただいてはいで やっぱり色々考えてく中でやっぱり私自身 の思いとか考え方ってのはやっぱり自民党 だとあの自民党だしたまたまその地元に来 られた記者の人と話をし私を知って記者の 人と話をしたやっぱり加藤さんはい自民党 だよねってある時言われたことがあってえ やっぱりじゃ1ついいあのご提案を いただいたただ一方でこう民主とも いろんな話をしてきてましたからま非常に こう悩みながらもま最終的にはジ民党ね 出ようとていうことでえ2回目の選挙出た んですがそん時でも小戦局全部回ってまし たんで切れということだったんですがま ちょっと順番がそこまでいかなかったです ねうんうんうんでもまその時にあの当時の 森総理始め皆さんから次はちゃんとするま ていう話をいただいたんだけどこの髪って どれだけなのかなと当時思いながらいや 本当に口約束じゃないのかなと思思い ながらだったんですがやっぱりそういった ことも走行してえ次のタイミングではです ねレイクで当選することがってきたはい はあその辺りがその加藤ムさん6流戦争の 中で竜太郎さんとの縁で出るっていうのっ て結構こう知らない人からするとこう すごい大胆な転換に見えるんですけども それもう流れだったんですかねそうですね それがまたきっかけになってその後ま今 派閥の話があるんですけどはい平成権に そのまま入ってった龍太さんの橋本さんで そうですよねはいはいでその波ムさんの 後継者じゃないかじゃあ敵の敵だ敵は敵だ みたいなことじゃなかったですねうんじゃ ないですねだから私自身確かに義の親父が 議員をしてましたけどただその選挙区うぬ とかいう形のいたそれを引き継いたわけで は全くなくてその引き継いだわけでもな いっていうところもすごい不思議な流れ ですよねていうのはだって今言った自民党 の外にいましたから離しちゃってますもん ねはいでもそのあの無月さんの秘書になっ たのは離島した後ですもんねそうです離島 した後にそのもうだから旗内閣の時は新も もう出てました出てますもだからあの いずれ盤をっていうので言うと引き継げ ないなっていうのはあったんですかま行く ところありませんけれどもまそこは自分で もう切り開いてかなきゃいけないこのま たださわさありながらやっぱりずっと抽選 局時代含めて父支援していただいた方も いらっしゃるしま私もあの土日なんか帰り ながらですね政治活動できませんけどま いろんな人とコミュニケーションすること はできましたからまそういう活動を通じて ま色んな知ってる方もおられたああ なるほど じゃ完全に引き継いだわけではないけれど もやはりそのムさんの継者であ るっていうことで作りやすい盤ではあっ たってことですかそうですねま光景って いうあの皆さんから見れるとそういう イメージだと思いますただ選挙区がある わけじゃないからこの光景というわけでは ありませんけどもはいただそういう応援し てきた繋がりという意味ではありましたね なんかこう今盤看板カって言われて やっぱり2世3世じゃないと政治家って なりづらいのかなっていう風に思われてる と思うんですけどその盤って作れるもんな んですかまそっからやっぱりあの1つ1つ 回ってニケーションしてただ作ってくん ですけれどもただそのはい今の小鮮局に なるとやっぱり自民党だってことになると それそれなに行くんだけど自民党の方が いる中ではいまどどうするかわかんない無 所属だっていくかもしれないていう中で こう活動してくっていうのはなかなか余な ことじゃはないんですけれどもああ なるほど いう中でやってきた繋がりがその後は すっごく私にとっては助けになってますね ああじゃそのう曲折だった2度の楽天の時 のその活動っていうのがその後にすごく 生きてくる生きてきその時にまた繋がって きた人との繋がりうんうんうんであの頃は こうだったなとか今今となってはね いろんな話が出るんだけどそういう話が 出る関係ができたあ苦労話というかあの時 落ちちゃったけどあ時大変だったよねて いう話を今でもできるねそういうことです ねあでもそれってすごく重要なことですよ ねえも本当ありがたいことですよねはあで もなんかその色々取材した中でその最初に かなり右曲折あられた方なんだなっていう のがかなり特徴的でそこをちょっと今聞け てすごく面白かっあざいそこから平成権に 入るわけじゃないですかそうあの落ちたん ですけどねま準準平成会でしょ銀じゃない から落ちたけど入っといてその上で当選 するわけですよねそうですで当選してま生 っていうか本来のま議員議員の会ですから 議員じゃないってのはま順ですよね うんうんその頃の平成権というのはどう いう状況だったんですかねまいわゆる竹下 派の流れから組んそもう早々たるメンバー がおられましたよ日本人が今すごく会え でるのがこれやっぱり所得の問題ですよ これじゃ日本に未来はないですしその流れ はやっぱ変えていかないとどんどん どんどん日本が小さくなってしまうから うんやっぱりそれが今だうん国民所得倍増 やるある意味ではもうラストチャンスかも しれませんこ逃しちゃ絶対にならない なるほどプログレス [音楽] 人は何者にでもなれるいつからでも次は あなただ